「なあ、夕飯、お好みでいい?」

 「え?お好み焼きはおやつだろ。ご飯に代わりにはならないよ」

 「なんでやのん。じゅうぶん夕ご飯やんか」

 東京生まれ東京育ちの僕と、尼崎生まれ尼崎育ちの家内との間には、当然、文化摩擦があった。関西人であれば、家内の意見は何ら違和感がなく、僕がとてもわがままな亭主に見えることだろう。しかし、東京の人間であれば立場はまったく逆になるはずだ。

 「なあ、豚小間でいいから、豚肉のカレーつくってよ」

 「いやや、何でカレーに豚を入れなあかんねん。カレーは牛や。百歩譲ってもかしわやな。豚はちょっとランクが落ちるねん」

 「そんな。君、お好み焼きには豚肉入れるじゃないか」

 「あれはいいねん」

 まったく些細なことではあるものの、それは双方譲れぬ言い分であった。加えて家内の場合、両親が共に沖縄県名護市の汀間出身であり、関西文化の底流に根強く沖縄の文化が根付いており、これが話を余計にややこしくさせるのだった。しかし、そのややこしい掛けあいが煩わしいかといえば、僕らはそれを楽しんでいた感もあり、そういう文化の違いは我が家に咲いた初めて見る花のようなものでもあった。

 ある日、家内は「あんなあ、私、通信の大学を受けてみようと思うんやけど」と言って、新聞広告を持ってきた。三人兄弟の長女、大学に行きたくても、親はない袖は振れなかった。学問も地盤もなかった両親にとって、その生活が決して楽ではなかったことは、自分の両親を見ていても十分に想像がついた。ましてや、家内の後には妹と弟が控えている。青春時代に断念した夢を、40歳を過ぎて納得できる形でケリをつけようとしているのだ。足が不自由であった家内のただひとつの心配は、夏場に通学が必要であるということだった。

 「いいがな。そんなん、俺が車で送ってやるよ」

 「仕事はどうすんのん」

 「そんなの適当な理由をつければいいがな。なんだったら事情は話してもいいよ」

 そもそも僕が車の免許を取ったのは、障害者手帳を持っていた家内に「足」が必要だと思ったからで、もっともいざ免許を取ってしまえば、僕の中の騎馬民族の本性が覚醒し、休みのたびにあちこちと遠距離を走りまわる生活に変容してしまった。時として、その行動範囲の広さに家内のほうが辟易するということもあったはずだ。

 ワーカホリックだった僕は、せめて盆暮れだけは、家内にわがままをさせようと、栃木時代などは早めに飛行機で福島空港から伊丹に飛ばし(家内の実家は伊丹からタクシー圏内だった)、一、二週間後に僕が尼崎まで車で迎えに行くという離れ業をやってのけた。「自分の実家に年に二回、二週間も帰れる嫁さんなんてほかにいないぞ」などという軽口を叩きながら。

 僕らは、子供がいなかった分、親である部分はまったく欠落しているが、夫婦であることにかけてはふつうの家庭よりもお互いの距離は短かった。末っ子で育った僕は家族に愛されることには慣れていても、家族のために身を粉にすることにはあまり慣れていなかった。でも、結婚した時、家内は自分の健康問題でそれなりの覚悟を持って嫁いできた経緯があるし、外出の際の駅への送迎や休日の買い物など、家内を気遣うことは僕には自然なほど幸せなことだったのだ。こう書けば典型的な自己満足型のナルシストに見られる危険性を感じなくもないが、誤解を恐れずに言うならば、それが僕の「幸福のかたち」だったということだ。

 結婚して十三年間の間に、僕の仕事の都合で七回も引っ越した。煩わしい作業ではあったが、七つの場所で過ごした環境の違う生活は、僕らの人生をより変化に富んだものにしてくれた。

 大阪のマンションの10階の部屋のサンルームから二人で眺めた夜景――堺に点々と続くハイウェイのオレンジの灯を僕は懐かしく思い出す。

 休みの日に、奥日光や尾瀬周辺の高原でイオンシャ安利傳銷ワーを浴びながら転寝をしたまろやかな時間。

 一番の田舎暮らしだった栃木時代、些細なことで喧嘩になり、僕は夜中に家を出て車で訳もなく北上した(こういう時でも、僕は妻の体を慮って「出ていけ」とは言えない。自分が出ていくしかないのだ)。一般道をやみくもに進み、仙台市内に入って夜が明け、半田屋という宮城ではちょっと有名な安くて腹いっぱいの定食屋で、さんまだの塩辛だの海の幸で腹いっぱい丼飯を食い、そこを折り返しとして引き返した。途中、家内から電話が入る。

 「あんた、いまどこ?」

 「福島だよ」

 「何してんねんな。高速乗って、早く帰ってきいや」

 何もなかったように語り掛けてくる不自然な平静さ。お互い、まだ不満の余韻は残るものの、一晩を経て、かなりクールダウンもしている。僕は一応、仲直りの貢物として季節のフルーツを見繕ってお土産にする。家に帰ると、僕は何事もなかったように、家内にお土産を渡し、ベッドに横たわる。家内が隣に纏わりついてくる。実のところ、夜も含めて半日も車を走らせてきて、僕自身はまだ、納得できない気持ちが残っていたのだ。

 「なあ、これからこんなこと、何回くらいあるんやろな」

 「知らねえよ。お前が怒らすから悪いんだぞ」

 「ねえ、あなた。今度生まれ変わっても私と結婚する?」

 どこの夫婦も一度は交わすであろうよくある会安利呃人話だ。しかし、僕は当たり前に「うん」と答えるのがシャクで黙ってみた。即答しない僕に、妻の顔に不安が走る。

 「夫婦じゃなくていいよ。君を360度愛そうとすると、親もやらなければいけないし、子供もやらなければいけないからな」

 「いけずやなあ」

 不満の色を少し残した妻の横顔に、僕は留飲を下げる。くそ意地の悪い男だ。

 ケンカも世間並みにしたけれど、僕は幸せだった。

 僕はいつまでも彼女を大切にするだろうし、彼女は僕を信じてくれるのだろう。こんな幸せがいつまでも続くといいなと思った。いや続くものだと信じていた。

 しかし、結局は、この幸せは永遠に続くし、巡って来る未来は幸福なものに決っているという錯覚の中でまどろんでいただけだったのだ。若さの驕りというべきか、生命の驕りというべきか、この世は仮の世界だというように、現実なんてある時、いとも簡単に壊れてしまうものだ。

 夢を見ているのか。夢から覚めたのか。独纖瘦店りぼっちになった僕が、休日の朝、目を覚ます。

 「なあ、きょう、どこに買い物行く?」

 僕は、もうその言葉を吐くことができない。僕は家内に気を遣うことで満たされていたのだと知った。そして、時折、涌いてくる後悔。なぜ、あの時、「何度、生まれ変わっても夫婦がいいな」と言わなかったのか。その言葉を言っていたら、家内はもっともっと喜んだだろう。そこにあった一点の悪意のために、僕はどれほど自分を責めただろう。

 来年は十三回忌を迎える。僕にとって、すべては通り過ぎていった幻ような記憶になりつつある――。